団子の歴史
団子の歴史は、縄文時代まで遡り、日本人が団子を食べ始めたのはこの時期からではないかと推測されています。
当時、身近にあったクヌギ・ナラの実(どんぐり)はアクが強いため、食べる為に一度、粉にして水にさらしました。
そのアクが取れた粉状のものを、土器などで糊状の粥・団子にして食べたのですね。
団子状にしたものは食感が良く美味しかった為か、穀物を食べるようになった後も、団子を食べる食習慣はなくならなかった模様。
室町時代においては、既に串ざしの団子があったようで、1600年代には団子は串に5つさすのが普通でした。
団子が一般的になったのは、1700年代、江戸時代が安定期になった頃のことです。
この頃に、「花より団子」という言葉が出来ました。
お花見には、今でもお酒・お弁当などは欠かせないと思いますが、それよりも団子が主役になるほど当時流行したようです。
みたらし団子の歴史
みたらし団子は、京都下京区にある下鴨神社(加茂御祖神社)に由来するものと言われています。
京都市京区にある下鴨神社の御手洗祭のときに、神前のお供え物として氏子の家庭などで作られた団子がみたらし団子の元となっています。
なお、みたらし団子は漢字では「御手洗団子」と書きます。
「おてあらい」でも「みたらい」でもなく、「みたらし」です。(笑)
「御手洗祭」も「みたらしまつり」と読みます。
下鴨神社のみたらし団子は、1串に5個が並び、1番上の1個が最も大きく、その下に少し離して4個の団子を並べた形状になっています。
この形状になった由来はいくつかあります。
ひとつは、後醍醐天皇(1318-1339鎌倉末期)が下鴨神社の境内にある御手洗池で水をすくったところ、最初に大きな泡がひとつ浮き、やや間を置いて泡が4つ浮き上がったことから、その泡を団子に見立てて作ったという説があります。
もうひとつは、みたらし団子は人間の頭と手足をかたどったもの(1番上の大きな団子は頭、その下の4つの団子は四肢)で、これを神前に備えてお祈りをし、それを家に持ち帰り食べることで厄除けにしたとも言われています。
現在の形になったのは大正時代の頃で、それまでは生醤油の焼き付けだったものを、「加茂みたらし茶屋」のご主人が醤油・黒砂糖を使ったたれを考え出し、現在に至ります。
みたらし団子が「4個」の理由
上述の通り、1本の串に5つ刺さっていた「みたらし団子」は、たちまち大人気となり、「5つ刺し」が全国に広まっていきました。
京都を中心とした関西地区では、今なお「5つ刺し」の串団子が多く存在していますが、関東地区などでは、「5つ刺し」から「4つ刺し」、「3つ刺し」等に変化していきました。
では、なぜ「5つ刺し」から「4つ刺し」になったのでしょうか。
江戸時代には、串団子は「5つ刺し」が主流で、1本あたり5文(江戸時代の貨幣単位)で販売されていました。
5個で1串だった「みたらし団子」が4個で1本になったきっかけは、1756年頃に4文銭が誕生したことでした。
4文銭が鋳造され流通すると、混雑のお店で4文銭1枚しか支払わず、5文の「5つ刺し」の団子を食べるという不正をする客が増えてしまったのですね。
そこで、困ったお店側が苦肉の策として団子の数を4つにしたようです。
その後は、この「4つ刺し」も全国に広まっていき、関東地区以外でも見られるようになり、「みたらし団子」は現在も「4個1本」で売られることが多くなっています。
「みたらし団子の日」って何?
東京都千代田区岩本町に本社を置き、「みたらしだんご」等の商品を製造・販売する「山崎製パン株式会社」により、スーパー・コンビニ等で幅広く販売されている「みたらしだんご」を、手軽なおやつとしてもっと食べてもらう目的で制定されました。
「みたらし団子の日」は、毎月3日・4日・5日になります。
日付は「3(み)4(たらし)5(だんご)」と読む語呂合わせから毎月3日・4日・5日としたようです。